2022年2月19日土曜日

対馬 金田城 

 約1300年前に積まれた石塁ですがよく今に至るまで形が残ったものです。崩壊も激しく、崩れた石塊が周辺に散らばってはいる。しかし原形をとどめた部分も思いのほか多く、力強く湾曲しながら斜面を登る石塁を見ると素直に感動してしまいます。

外側から見る南東角の石塁

ほぼ同じ個所を下方から逆方向に見上げると・・・



「当時の国際関係の緊張」を想像し、遠い関東からこの地に派遣された防人(さきもり)たちの心情に思いを馳せるには過ぎた時間が長すぎる。しかしこの巨大な砦を築くために注がれたとてつもないパワーは見る者の心を捉えて離しません。

写真を見て以来「どうしても見てみたい」という気持ちに抗しきれず行ってきました、対馬の金田城(カネダジョウ、カネタノキ)。

城山への登山道入り口  5,6台の駐車スペース

この日、朝7時に宿を出てレンタカーをし、城跡の入口には8時半前に着いたように思う。厳原から車で20分ぐらいだろうか、近い。駐車場には一番乗りだった。11月の朝はひんやりした空気が気持ちいい。

軍用に造られた道なので広い。石塁の南東角までしばらく歩く。

対馬に金田城が築城されたのは7世紀末の朝鮮半島情勢が大きく影響しています。当時朝鮮半島には高句麗(コウクリ)、新羅(シラギ)、百済(クダラ)の3国があって、日本は百済と友好関係にありましたが、660年にこの百済が滅亡してしまいます。その百済の復興を援助しようと日本が大軍を朝鮮半島に送って白村江で唐・新羅軍と戦闘に入ったものの、敗れてしまったのです(663年)。反撃を恐れた日本はその翌年、対馬、壱岐、筑紫に防備体制を敷き、667年には大和に高安城、讃岐に屋島城、そして対馬に金田城を築城したのです。

ところで日本史上きわめて重要な役割を担ったこの金田城ですが、実は長い間明確な位置は確認されなかったようです。『日本城郭全集』(人物往来社、1960~1968年)と『日本城郭大系』(新人物往来社、1980年)における説明を比べると、その認識の変化を感じることができます。

登山道入口にある案内図
「現在地」は登山道入り口  金田城石塁は赤線で表示  点線は歩行可能な通路

発刊の古い順にみて見ると、1967年刊の日本城郭全集⑭では現在の『金田城』は「黒瀬城山城(クロセジョウヤマジョウ)」という名前で紹介され「浅茅(アソウ)湾に面した城山(ジョウヤマ)にあった朝鮮式山城」「天智天皇の二年に各地に築城された国家的城塞の中の一つで、対馬に築かれた金田の城ではないかと推定され、有力な候補地になっている」との説明に留めています。

一方、当時『金田城』と見なされていたのは佐須にある別の城跡で、名称は『金田城』になっているのに「その所在地は、明確ではない。一節に佐須にある金田の城をこれにあてるが伝説の地である。」と現状に否定的な見方を示すとともに、遺跡の多さを根拠に「現在は黒瀬の城山が有力」と述べている。

ところが日本城郭大系(1980年刊)になると『黒瀬城山城』だった城跡が晴れて『金田城』の名称で紹介され、この10数年間に遺跡の場所を巡って大きな進歩が見られたことが分かります。

東南部 ここで大きく東に湾曲して三の城戸へ


上の写真のすぐ左側で発見された掘立柱建物跡 
兵の詰め所か見張り場だったのでは、と案内板の説明


平成15年度調査で発見された南門も近い
修復作業が進められている


城山は山全体が火成岩の一種である『石英斑岩』で出来ていて、石塁の石はここから取られたもの、と見られています。金田城は自然の地形を上手く利用していて、陸続きなのは西側から南側にかけてだけですが、急峻な地形なのでこの方向から攻めるのは難しい。その他は海に接していますが、直接面しているわけではない。「敵」は海からやってくるのを想定していただろうから、城戸周辺の石塁は高い。

石塁南側 並行する登山道から見上げる

登山道と交差する南西部で見える石塁

石塁の状況を簡単に説明すると、城山の頂上を最高所とし、そこから周囲およそ2.8キロにわたって緩い四角形の石塁が海岸線に至るまでの広い地域を囲っています。高さは2メートルから7メートルあります。石塁というのは石造りの『土塁』で朝鮮半島の山城に多い形です。日本では珍しい形態です。石が地面に対してほぼ直角に積まれているのも特徴です。

この石塁で囲まれた城の内部から防人がいた当時の建物の跡が見つかっています。また海に近い石塁には一ノ城戸(キド)、二ノ城戸、三の城戸と外部との接点が設けられ、城門跡も発見されています。

現在、金田城の石塁に沿って日露戦争を前に造られた軍用道路が残っています。1901年、浅茅湾にロシア艦船が侵入することを警戒した旧日本陸軍が城山の頂上付近に砲台を設置したした時のものです。この道路は現在登山用ルートとして重宝されています。

城山頂上近くに残る旧日本軍の砲台跡

砲台跡

頂上近くの石塁 左は急斜面





頂上直下の浅茅湾 
雲一つない青天でしたが、海上に薄く霞が掛かっていて朝鮮半島は見えませんでした。

石塁はこの軍用道路と石塁脇の通路を利用すると簡単に一周することが出来ます。時代を経た石塁の様々な形が見られ、浅茅湾を見下ろす絶景を楽しみながら、私も金田城を一周しました。4時間半かかりました。距離があり、傾斜が急なのでそれなりの装備と覚悟が必要です。しかし一周する価値は充分あります。

登山道入り口から近い「南東角の石塁」を起点に三つの城戸を中心に回るなら、1,2時間あれば十分です。


一ノ城戸  三つある城戸で最大の規模


上の写真右下にも見えています、水門です。アップで…

二ノ城戸

三ノ城戸 

柱穴でしょうか・・・

特に頂上から旧日本軍の砲台跡を経て一ノ城戸へ下るルートは傾斜が急なだけでなく、足場も悪いので注意が必要です。又このコースを逆方向に登るのは避けた方が賢明です。よほど健脚に自信のある方以外は。

対馬の山は高さはありませんが、変化に富んだルートと目を見張る景色の美しさで人気があります。城山も人気の高い山で、私が登った日も関東から来た登山グループとすれ違いました。

大吉戸(おおきど)神社前の海岸で登山グループと再会

イルカの群れ  歓迎に現る?


天智天皇の頃も明治時代も同じ場所に軍事施設が設けられたのは、この場所の軍事的な重要性を示しています。ただの偶然ではありません。崩れかけた石塁を眺め、崩れた石塊に足を取られて歩きながら、国境に位置することの避けられない運命に思いを馳せてしまいます。しかし周りを取り囲む海と、そこに散らばる島影と、白い石塁が織りなす山頂からの眺めは、そんな現実にそぐわないくらい優しく、美しい。

現在石塁の崩れた部分の多くが修復されていて、築城当時の姿を思い起こすことが出来るようになっています。高さ数メートルにも達する石の壁は、今見ても相当威圧的です。当時は現在以上に力を感じさせる建造物だったことでしょう。発掘調査がさらに進められ、これからも新しい発見が続くことを期待したい。




対馬 清水山城

眺めは良いがこんな居心地の悪い場所で戦は出来ないだろう。清水山城(長崎県対馬市厳原町)を登りながら思った。平板な場所が一つも見当たらないのだ。どこも斜面、それもかなり急な勾配なので寝る場所はどうやって確保するのだろう?ハンモックでも吊って空中で寝たのだろうか?

城の形はしているけど戦う場を想定していなかったのでは? 急な勾配を「三の丸」から「一の丸」に向かって歩きながら(喘ぎながら?)ここで何をしようとしたのか、様々な思いが頭の中を駆け巡った。なんとも歩きにくい。

「三の丸」を西側から見上げる   虎口は右手

「三の丸」虎口を入って「二の丸」の方角を見る

宗家の領国対馬藩の中心「厳原」を見下ろす清水山(標高208m)の頂上に「一の丸」を、そこから下る尾根上に「二の丸」さらに「三の丸」を置く連格式の山城が築かれたのは天正19年(1591年)のこと。朝鮮半島を経由して明国に兵を送ろうとする豊臣秀吉が「総司令部『名護屋城』と朝鮮半島の釜山を結ぶ輸送、連絡の中継拠点として築城した」というルイス フロイスが「日本史」に残した記録が現地の案内坂に紹介してある。壱岐の勝本城も同時に造られたという。
「日本城郭大系」に掲載された『清水山城古図』
古いが全体像はつかめる 「三の丸」は右下

築城当時は宗家が居住する「金石城」のすぐ後ろに位置していたので、いざという場合「詰めの城」としての役割も担っていたのだろうか。攻めるのは難しそう。

秀吉が築城を指示した文書は残されていないが、最新の研究によると当時、小西行長とともに朝鮮との連絡、折衝にあたった宗義智(そう よしとし、宗家第9代、初代対馬藩主)を中心に相良長毎、高橋直次、筑紫廣門らが築城にあたったという説が有力とのこと。これも現地の案内坂の説明。

三の丸  斜面に沿って登る石垣(西側)

東側の石垣


狭い通路の真ん中に巨大な岩石



二の丸虎口(見上げる)

二の丸虎口(内側から見る)  枡形がよく分かる

貴重な平坦地  左に枡形虎口の一部が見えている

標高は高くないが、「三の丸」から「一の丸」まで幅およそ30メートルの細い曲輪がおよそ500メートル近く急な傾斜をぐんぐん昇る、とても細長~い曲輪で、その両側の石垣もこの急斜面を昇る。秀吉が朝鮮半島に造った「倭城」に多く見られる「登り石垣」とか「竪(たて)石垣」などと呼ばれる斜面に沿って造られた石垣が知られていますが、この清水山城の石垣は全部『登り石垣』なのだ。

「一の丸」に到着  虎口を見上げる

内側から見る「一の丸」虎口 
二重になっていて左手にもうひとつ虎口がある


「一の丸」二重目の虎口

風化して崩れた石垣は多いが、城全体としてはかなり原形をとどめているように見える。恐らく文禄・慶長の役の後は対馬が戦に巻き込まれることもなくなり、城はそのまま残されたからかもしれない。しかも宗家は厳原のやや奥まった桟原城(さじきばらじょう)に1660年に居を移し、清水山城からはさらに離れることになる。

傾斜がきわめて急峻なのと幅が狭い上に、岩盤が露出している個所が多い。岩がそのまま残った場所も多い。削平地は「二の丸」にわずかに認められる程度だ。清水山城の最高所「一の丸」からは真下に厳原港、厳原の街並みを望み、周辺の美しい山並みに心が癒される。


二つ目の虎口越しに見る厳原の街と港

城跡は、厳原の街のすぐ上に位置していて街並みや港が眼下に望め、市民のハイキングコースとして整備されている。歩きにくさを我慢できるなら、広大な海原と豊かな緑に幾多の歴史をちりばめた景色を楽しみながらリッチな散歩が楽しめる。「一の丸」まで登る人は多くはないかもしれないが、街からのアクセスの良い「三の丸」周辺までなら気軽に登れるだろう。対馬市役所に近い『ふれあい処つしま』の後ろから登れば10分くらいの距離だった。



2021年7月2日金曜日

大地の恵みが流れる 川湯温泉

 湯に浸かったとたん、思わず至福の声を上げてしまった。周りに人がいなくてよかった。なんとも皮膚に柔らかく、染み入るようで心地いい。北海道弟子屈町の川湯温泉でのこと。観光案内に湯質は「酸性硫化水素泉、酸性硫黄泉、35度~65・5度と記されているが、このまろやかな感触は何なのか。見た目は無色透明に近く、匂いも強くない。2泊した間の朝に夕に、一日二回合わせて四回、この湯をひたすら楽しんだ。

宿泊を川湯温泉に取ったのは名前の由来が気に入ったからだった。町中に湯が川のように流れていたから、「川湯」と名付けられたという。湯量を誇る温泉はたくさんあるが、川になるくらいの湯がイメージを膨らませた。もちろん宿の湯はすべて源泉かけ流し。「強い酸性湯」から受ける印象とは違って皮膚に心地よくなじむ湯の感触が楽しみで、夕食前のひとときが待ち遠しかった。同行した配偶者も川湯温泉の湯がよほど気に入ったと見え、部屋に戻るやひとこと「これまでのベスト!」。

ほどなく川湯温泉 ― 期待を高める硫黄山の噴煙

川湯温泉は北海道の地図を広げると、オホーツク海と太平洋に挟まれた東側、摩周湖と屈斜路湖の間にある。「川湯温泉駅」という鉄道の駅があり、釧路と網走を結ぶ電車が一日に数本走っている。温泉街までは3.5キロと歩くにはちょっと距離がある。私は女満別空港からレンタカーを使った。1時間少々かかっただろうか。

看板の右後ろが唯一のコンビニ

面白いことに町に温泉らしさがありません。巨大なホテルも見えない。町の大通りを挟んで3,4階建ての宿泊施設が何軒かあちこちに見えるだけだ。湯の匂いもしないので、始めは本当に湯が流れているのだろうか、と怪しんだ。

温泉地につきもののお土産さんも見えない。扉が閉まったままの店があるところを見ると、まったくの想像に過ぎませんが、近くの都会から押し寄せた人たちで週末がにぎわった時代は過ぎてしまったのかもしれません。お土産屋さんが繁盛したのも今はすっかり過去の話になってしまったのか。そういえば人の住まなくなった家、アパート、営業停止したホテルが見受けられる。

丹前姿は見られません。

多くの車が並んだ時もあったのでしょう。

大鵬相撲記念館

実は川湯温泉はかつての大横綱、大鵬関の生まれ育った町で、川湯中学を卒業している。町中に建つ「大鵬相撲記念館」に入ると、小学生の頃、白黒テレビの前で胸をときめかせたはるか昔を思い出した。あの強さと、勝っても負けても表情を変えない横綱らしさがなつかしい。客は私たちふたりだけ。

しばらく大通りを歩くと川湯神社がある。湯が奉納されているのは当然として土俵はやはり大鵬関と関係があるのだろうか。それとも大鵬以前から奉納相撲が盛んな土地柄だったのだろうか。

川湯神社

『湯は60度』の注意書き付き

そこから2,30メートル歩くと川があり、橋を渡りながらふと目にした流れが異様にきれいなことが気にかかったので、戻ってよく見ると湯気が立ち上っているではありませんか。

これか?湯の川は・・・。


湯は透き通ってきれい。

湯気、見えますか?

流れに指を入れると温かい。町の地図を見るとこの辺りから川が流れだしているのがわかる。流れに沿って歩道が整備されている。照明も設置されているということは夜は照明をあてるのか。

それにしても町に人通りはなく、静か。街中をぶらついた午後3時過ぎ、通り過ぎる人は誰もいなかった。大通りから一本入った道をネコがのんびりと横切るのが見える。と、そのまま座り込んでしまった。オイオイ、大丈夫か車?

ここは私の運動場。何か?

イヌなら動きが速いから車が来ても、と見ていると・・・何かオカシイ!これイヌじゃないでしょ?地元の人には当たり前の話でも関東から行ったらやっぱり驚きます。



近くの屈斜路湖の「砂湯」にも驚きます。砂の下はお湯。私も砂を手で軽く掘ってみると温かい湯がシッカリ出てきました。さざ波として打ち寄せる湖水は冷たいのですが。近くのキャンプ場に来た子供たちの楽しい遊び場になっているということですが、それだけじゃモッタイナイ。私も遊びたい。

砂湯

余りに町中が静かなので客足が途絶えたのか、と気になるくらいでした。しかし宿にはそれなりの数の客がいて安心しました。これだけの湯が沸く限り川湯温泉は人を惹きつけ続けるにちがいありません。

ここは日本列島の東の端に近く、朝の明けるのが早い。ふと目覚めるとまだ3時過ぎなのにもう窓の外が明るい。まだ早いけど、体をやさしく包むような湯を独占してくるか。