2014年11月28日金曜日

停まった時間(5) 但馬有子山城

11月3日(月) 文化の日

有子山(ありこやま)城は兵庫県豊岡市出石(いずし)町の有子山(標高321メートル)頂上にある。出石の街のどこから見上げても石垣が見えます。
出石城の後の山頂に見える曲輪

出石は古くは但馬の国衙が置かれていたと伝えられ、早くから開けた土地です。有子山城は永禄12年(1569年)但馬の守護、山名裕豊(やまな すけとよ)が建てた城で、居住する館は麓にあった。天正8年(1580年)豊臣秀長の攻撃を受けて落城するまで但馬の中心として機能した。

豊臣秀吉の治世下、城主は幾度か変わったが、慶長5年(1600年)に城主だった小出吉政は関ケ原での報奨として出石6万石を安堵された。後を継いだ息子の吉英は山頂の城を捨て、麓に城を築いた。現在の出石城と城下町の始まりである。

有子山城は織田信長が全国制覇を目指して走っていたころから、秀吉の時代が終わるまでを生き抜いた城だった。今でも山頂の曲輪や石垣に戦国の面影が色濃く残っている。

出石城は有子山の麓に急な崖を背景に築城されていて、総石垣の美しい城です。私は江戸期の石垣より秀吉の時代の石垣が好きなので、目は自然と麓を越えて山頂を向いてしまう。きょうの天気予報は雨。できるなら降る前に降りて来たい、と急いで有子山を登った。
尾根を横切る堀切

ロープは延々と続く お世話になりました

険しい山城はいくつか登りましたが、ロープを張った登城路は初めてです。ロープに捕まらないと立っているのも難しいくらいに斜面が急で、正直いって怖かった。
「主郭まで900メートル」「主郭まで800メートル」とまるで叱咤激励する声が聞こえてきそうな案内板を見ていると、確実に高度は上がっているのは分かるけど、その100メートルがなかなか進まない!

この日は「文化の日」で祭日。「お城まつり」と銘打った城下町出石の晴れの舞台で、近隣から多くの観光客が押し寄せています。駐車スペースの確保が大変でした。


高度を稼ぐにしたがって祭りの喧騒がだんだんを遠くなります。眼下の景色もどんどん広がります。山間のわずかな空間に息づく出石城下のこじんまりした佇まいが暖かく、かわいい。

突然右手の崖に石垣の段が見えてきた。こんな険しい崖にどうやって石垣を築いたのか不思議でなりません。恐らく土砂が崩れるのを止める「土留め」が目的だろうと考えていましたが、後で縄張り図で確認したら「井戸曲輪」と書いてある。どこに井戸があるのだろう、見えなかった。

「井戸曲輪」    急な崖に4,5段の石垣が見える

黄色い線が現在の登城路     主郭に設置された案内板
まず目に入る第六曲輪

上から見ると
第三曲輪を取り巻く石垣 上方に見えるのは主郭

第三曲輪の石垣は一番高く、周囲も長い



主郭の石垣   右手は虎口の階段

白っぽい石を使った石垣は苔むし、全体的に柔らかな印象を与える。幅のさほど広くない尾根いっぱいに曲輪が登って行く。主郭はかなり広い。出石の街と周辺の山が一望に見渡せてまるで天下をとった気にさせる。しかし高所恐怖症の兵にはつらい戦場だったに違いない。

これだけ高いと祭りの音も小さく聞こえる。街がここからよく見えるということは町からもこの城がよく見えるということだろう。
主郭から見た出石の街

主郭と千畳敷を隔てる巨大な堀切

千畳敷は一番広い

下の段は第二曲輪

有子山城は出石城が築かれた後、まったく使われなかったというが、さもありなんと思う。あの急峻な道はできるなら避けたいのが本音でしょう。

ところが私が登ってきた道、出石城の後ろから直登するあの道は当時の登城路ではなくて、別にあるそうです。出石観光協会にメールで問い合わせたら「本来の登城路は通行不能な状態で、しかも現在の登山道よりさらに急峻」だという信じられない返事がかえって来た。

あれより急な道ってあるのだろうか?エレベーターでも使ったか・・・。
麓の出石城  石垣は高く、広くなり趣は一変する


出石城は有子山の急な崖を背にした総石垣の美しい城だ。白塗りの壁や櫓があるが、復元されたもので観光地出石の目玉となっている。この日、お城まつり」のため大変な人出で町中の移動すら難しい。ゆっくり散歩したい街ですが、今回は有子山城が目的なので次回に期待したい。


後に信濃の上田城から移ってきた仙石政明(せんごく まさあきら)が信濃のソバ職人も一緒に連れてきたそうで、出石はソバが名物。せめてソバでも、と思ったけどこの人出で蕎麦屋はどこも長蛇の列。雨も降り始めたことだし、ソバも次回にしよう。



2014年11月27日木曜日

停まった時間(4) 越前木の芽峠城塞群

11月2日(日)

地元の人以外には馴染みのうすい名前かもしれませんね、木の芽峠。
ずいぶんかわいい名前をつけたものです。春になって木々の枝をびっしりと埋める新緑の芽が思い浮かびます。

福井県の嶺南地方と嶺北地方を分ける山の峠です。大和王朝の昔から畿内と『越』を結んだ道が通っています。『越』と呼ばれるようになった経緯は知りませんが、険しい山道を『越えて行く』ところからついたのでは、と勝手に思っています。かなり険しい道だったのでしょう。山道を越えてようやくたどり着いた果てしのない大地の連なりを「越の国」と呼び、やがて越前、越中、越後に政治的に区割りされていったのではないでしょうか。

峠が雪に閉ざされた冬が終わり、木々に芽が吹き出す頃になってようやく『越』に通じる道が歩けるようなったのでしょう、とこれすべて想像。

現在、JR北陸本線の北陸トンネルと北陸自動車道のトンネルが下を貫通し、国道365号線が脇を通っています。かつての峠道は今も江戸、明治の面影を残していて、休日には多くのハイカーが歩いています。すぐ下にスキー場が出来ていて、雪のない季節にはゲートボールに興じる近くの人たちののどかな動きを、停まったままのスキーリフトが暇そうに眺めています。

JRの駅でいうと今庄(いまじょう)と敦賀の間です。

この日に見た西光寺丸城址

私はかつての北国街道に興味があったのと、峠の周囲に残る山城をぜひ見たかった。木の芽峠山城群と呼ばれ、全部で4つの山城が確認されています。


畿内からの出入りには必ず通った道ですから城があってあたりまえです。
かつての北国街道  今庄側から峠に向かう

峠には一軒の家が建っています

敦賀方面に下る北國街道  この部分の石畳は江戸期からのもの


採ってきた来たばかりのキノコを洗っているこの家のご主人に城の場所を尋ねたのですが、あまり良い顔を見せません。雑談しているうちにそのわけが分かりました。城跡といってもすべて所有者のある山林の中です。季節ごとの山菜が取られたり、勝手に歩き回られて荒らされたり、生活の場に直接足を踏み入れる私たちはあまり歓迎されません。
つい忘れてしまいがちです

ひたすらこの標識を探しました

主郭への虎口・・・らしきもの

主郭   周りに土塁

直ぐ近くに西光寺丸城と呼ばれる城跡があるので、道を教えてもらってそちらに向かった。もともとどんな城跡なのか詳細はわかりません。4つ残っているといわれるうち、とりあえず一つでも見たい、というのがここまでやってきた理由です。

いろいろな城跡の巡り方があると思いますが、私はとにかく自分の目でまず見ることが好きで、縄張り図を含めて詳細な情報はその後で目を通すやり方です。見落とす部分は当然多々あります。気に入ったら改めて出直すことにしています。研究者ではないので、好きか嫌いか、がすべての判断のもとなのです。

遺跡に指定されている城跡なら現地に縄張り図を含めた簡単な案内がありますが、その時もまず自分で見回って想像の世界に十分遊んでから、縄張り図で確認することにしています。
主郭の入り口に立つ案内

「城ではたくさん人が死んだ」 無名戦士への供養塔でしょうか

主郭を回る空堀の跡  かなり埋まっています

西光寺丸は広範な地域に曲輪が展開されているようです。しかし実際に歩いてみると、主郭と虎口(らしきもの)、周辺の空堀(かなり埋まっている)は確認できましたが、それ以上は笹が繁茂していて歩けませんでした。主郭は2,30メートル四方で狭い方ではないでしょうか。

石垣を訪ねる旅で遭遇するまったくの土の城は、それはそれで新鮮でした。城跡だけでなく、北國街道も峠の石畳も時間が停止したような静けさに佇んでいました。

道がよくわからないので、スキー場から40分くらいかけて歩き、その結果往復で1時間かかった。しかし行ってみると峠の下に駐車場があり、車で登れることがわかったので次回はぜひ西光寺丸以外の城址にも足を延ばしたいものです。

国道365号線に戻って坂を下るとあっという間に敦賀でした。

停まった時間(3) 越前小丸城

11月2日(日)

越前の木の芽峠に向かう途中、小丸城から出土した文章を書き込んだ瓦を見ようと越前市に立ち寄った。越前市はかつての武生(たけふ)市で、はるか昔は府中と呼ばれ、越前の政治の中心であった街だ。

「越前の里郷土資料館」に展示されている文字瓦は残念ながら貸し出し中で、レプリカが置いてあった。昭和7年(1932年)、小丸城祉を発掘中に発見された瓦で、表面に織田信長軍の残虐な殺戮行為を非難する文章が刻まれていたことで知られる。
「越前の里郷土資料館」に展示されている文字瓦

焦点が合わず見にくいけど筆跡を見て欲しい(レプリカ)


瓦が発見された小丸城というのは織田信長が天正3年(1575年)越前の一向一揆を平定して送り込んだ佐々成正が築城した平城。越前市の郊外に主郭と周辺の一部遺構が残っている。

瓦に書かれた文章は当時の一向宗に対する激しい弾圧行為について、目撃した人物がほぼリアルタイムに書き残したものとして注目された。
小丸城祉に残る石垣

瓦に刻まれていた文章とは

   此書物後世二御らんしられ

   御物かたり可有候

   然者五月二十四日

   いきおこり 其のまゝ前田

   又左衛門尉殿 いき千人はかり

   いけとりさせられ候也

   御せいはいハはつつけ

   かま二いられあふられ候哉

   如此候 一ふて書とゝめ候


おおまかに現代の表現にするなら

              ここに記すこと、後世の人の目に留まり
              広く知られるようにして欲しい
              というのは5月24日
              一揆がおきて前田利家殿が
              千人ほど生け捕りにし
              罰として磔にしたり、釜ゆでにしたのです
その事実をしかと書留めておきます

この文章を詳細に読み解く能力はありませんが、見るだけで伝わるものがあります。展示してあったのはレプリカ(実物は貸し出し中でした)だったのでどこまでオリジナルに忠実かはわかりませんが、刻まれた字が達筆なのに驚きました。また文章も落ち着いているように私には思われました。

一揆に参加した農民か、目撃した住民が怒りに任せて書きなぐった、という体ではないようです。しかも教育を受けた人ではないでしょうか。前田又左衛門尉 殿、と丁寧に敬称をつけて書いているところを見ると織田方の人物と思われる。

瓦は自分で焼いたとは考えられないので、信頼できる職人に指示したに違いない。恐らくはそうした任務をまかされた、それなりの地位の人ではないか、と想像します。

でもなぜ城内の地中に埋めたのか?あまりにひどい、と憤ったことはわかるが、二度と陽の目を見ない可能性もある地中に埋めたのはなぜでしょう?

瓦が同時代に作られたものであることははっきりしているそうです。後世のねつ造ではないようです。その必要も思いつきません。あれこれ想像しても誰が、どうして?に思いつく力のないのが恨めしい。後は小説家の腕に頼るしかない?

そこから2,3キロのところにある小丸城跡に向かった。山城、せいぜいで平山城が一般的だった時代にこんな平城をつくるとは、とまず周りから2,3メートルしか高くない主郭を見て驚いた。周りに適当な高さの小山がいくらでもあるのになぜここに・・・。

主郭虎口

内側から見た主郭虎口

上に載せた石(真横から撮影)

主郭はおよそ40m X 50mの方形をしていて、周辺に堀跡とみられる窪地が見られる他は一面の畑だ。道路の反対側にも城郭遺構では、とみられる土地の形が伺えるが、私有地のようで入るのが憚られる。後で調べると瓦が発見された隅櫓があるのはそこでした。
虎口から見る主郭

 主郭虎口周辺は石垣もよく残っていて見飽きません。虎口は石の屋根をつけたユニークな形をしています。

城郭が取り壊された後は地元有力者の庭園に利用されたのでは、と思われるくらい、広さといい石垣の配置といい、様になっていてきれいです。城跡、と表示してなかったっら庭園にみえるでしょう。
主郭

主郭脇(北側)の堀跡 かなり埋まっている

主郭脇(西側)にわずかに見える堀跡

城跡を横断する道路から見た現在の城跡
瓦は道路の反対側から発見

またしても瓦を想う。

凄惨な殺戮にまったく無縁な静けさしか今は感じられません。しかしひょっとすると文章の続きを刻んだ別の瓦がどこかに埋まっているのではないか?発掘、あるいは何かの拍子にひょっこり発見されるのではないか、と期待してしまう。


2014年11月26日水曜日

停まった時間(2) 加賀大聖寺城

10月31日(金)

城跡として全国区的にはあまり知られていない。金沢市と福井市のほぼ中間なのでぶらり訪れる人は少ないでしょう。

標高65メートルの錦城山という、山というより丘に立つ平山城で、街のあちこちから見えますが高い森のようで威圧感はない。現在市民公園として開放されています。

石垣は目立ちませんが曲輪群、土塁は明確に残っています。平成23年から発掘調査が行われ、主郭にある櫓台を中心に石垣が発見されました。土の城から織豊系石垣の城へと移り変わる過渡期の城跡として注目された。

「鐘が丸」曲輪  左に土塁

土塁の上から見る「鐘が丸」

「西の丸」曲輪

「馬洗い池」 水には不足しないようだ

下に載せた縄張り図はその時の現地説明会(平成24年)で配布されたもの。詳細すぎてかえって分かりにくいかもしれません。

実際に城跡を歩いてみると、2重の馬蹄形に入ったような感じを覚えました。歩いているうちにいつの間にか別の輪に移ってしまっていて、方向感覚がおかしくなるのです。意識的な縄張りによるものか、公園になって歩道が整備された結果なのか、分かりません。主郭は内側の輪の中心にあって、その一隅にある櫓台の周辺には石垣の一部が露出しているのがよく見えます。他は土のままで曲輪はいずれも広い。
歩いて馬蹄形を感じた曲輪の連なり
「主郭」 南から北 左手に土塁

主郭 北から南 右手に土塁

「主郭」 北西隅の櫓台

平成23年の発掘で出た石垣(24年撮影)


土塁が櫓台(手前)に接続する直前の屈折が気になった

石垣の存在は発掘以前から指摘されていた

知名度が欠けるのは江戸時代に加賀前田家の支藩としての地位に甘んじたせいで、城としての歴史は古い。長く越前、加賀を支配した一向宗徒の陣として機能していた。織田信長が北陸地方の一向一揆を平定した後、羽柴秀吉が天正11年(1583)に4万4千石で溝口秀勝を城主に据えた時から歴史に姿を現す。

秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役 1590~1588))では溝口秀勝が大聖寺城より名護屋に行っている。朝鮮には渡らずに名護屋城守備の任務についたという。朝鮮の役の直後に新発田城に6万石で移った。間もなく勃発した関ケ原の戦いでは東軍についたおかげでそのまま初代新発田藩主になり、明治に入るまで存続した。

曲輪、土塁は驚くほどきれいに残っている


発掘調査は続行中

溝口が新発田に移ってから大聖寺城に入ったのは山口宗永で、慶長3年(1598)7万石だった。山口宗永は翌年起こった関ケ原の戦いで西軍についた。そのため前田利長(利家の長男、金沢藩二代藩主)に攻められて大聖寺で命を落としている。信長から秀吉へ、さらに秀吉以降に向けて繰り広げらっれた激しい権力闘争のなかで運命を左右された人がここにもいた。

加賀前田金沢藩の支藩となったものの徳川幕府による一国一城令を受けて1615年廃城となった。城を降りた前田家は麓に屋敷を構え、城跡は出入り禁止のまま維持された。そのおかげて戦国末期の姿を色濃く残したまま、時間が停まった時の姿をとどめることになった。

主郭の櫓台を背に「山口宗永」を悼む記念碑が建っている。山口宗永は前にも記したように、溝口秀勝が新発田城に移った後に大聖寺城にはいった豊臣系の武将で、わずか2年あまりで前田利長の攻撃を受けて命を落としている。この時、前田を恨みながら城で自害した女性の気持ちを思い、『金沢の人間が錦城山に上ると、かんざしを挿した蛇が出る。』と大聖寺の町では言い伝えられているそうです。

25,000の前田軍に対し迎え撃ったのは1,200の軍勢、しかもそのうち800余名が命を落としたと伝わっている。そうした山口宗永に対し、2年少々の大聖寺滞在にも関わらず、判官びいきに似た感情が今でも残っているという。
「東丸」曲輪から見る大聖寺の街  真宗信仰の中心だっただけに大きな寺が多い


この話は大聖寺城の保存を目的とした加賀市の有志の集まり「錦城山城址保存会」に問い合わせて教えてもらいました。http://kinjyouzan.jimdo.com/ 

城跡を歩くだけでは聞こえない声を聞かせてもらいました。
深田久弥記念館

北陸本線JR大聖寺駅から徒歩25分、北陸高速加賀インターから10分。城跡からは白山が見えるはずですが、この日は曇っていて見られなかった。

大聖寺は作家であり『日本百名山』の著者、深田久弥の生まれた町です。明治の絹織物工場が「深田久弥 山の記念館」として活用されています。大聖寺城から歩いて5,6分。こちらはしっかり全国区です。