2015年5月31日日曜日

笠間城の八幡台櫓

天守の周りに残る石垣を見ようと、茨城県笠間市の笠間城に登りました。

ひたすら頂上部を目指して歩きながら、ふと堀底を歩くような気持ちがして振り返って撮った写真です。なんだ今は散歩道になっているけど、昔の空堀を利用していたのか、と納得。(後で縄張り図を見るとやはり空堀跡。)


私のいつもの攻城方法ですが、縄張り図は持たないで六感を頼りにひたすら登り続けます。だいたいどこの城跡も主郭だ、竪堀だ、と何がしか遺構の案内がしてあるので迷いません。でもここは勝手がちがう。案内が少ない、というよりほとんどない。困るどころか自分の空想の羽を思う存分広げることができてかえって歓迎。すっかり気に入ってしまった。
堀切と見られる土地の窪み

本丸 後方のラインは土塁の位置

土塁の上 この先に八幡台櫓

八幡台櫓跡

八幡台櫓跡から見下ろす本丸

主郭、あるいは本丸に相当する、と思われる曲輪も、土塁に囲まれ弓を構えた兵士が似合いそうな距離感でコンパクトだ。堀切を隔てた先の天守は城というより神社の階段を登る感じがする。
案の定、天守があったと思われる場所には神様が祀られている。周辺を見栄えのする石垣が取り囲んでいて、そこだけやや違和感を感じた。

石垣は2011年の東日本大震災で被害を受けて崩れたようで、現在修復中。神社への道も「立ち入り禁止」となっている。下から見上げるだけでも様子はわかるので我慢することにする。後から登ってきた人がいるので見ていると、地元の人らしく「(立ち入り禁止を)私は気にしませんけどね。」とドンドン上に行った、と思ったら柏手の音が響いた。
天守曲輪に至る石の階段

東日本大震災で被害 修復中

天守曲輪から見上げる天守跡 現在神社が建っている




この人に大手道を教えてもらった。本丸に接続する部分の石段は当時のまま、とか。近くまで車で登る道を教えてもらいましたが、山城はやっぱり自分の足で歩きたい。一乗谷では1時間ぐらいかかったのでさすが次回は・・・とその時こそ気持ちは揺らぎましたが、次もやっぱり歩きたい。
大手道の本丸口

この笠間城の主となった武将は山城時代の宇都宮氏、笠間氏を始め、いろんな姓の人がいるようです。戦国時代の後は蒲生氏郷の家臣や後に赤穂に移る浅野家も短期間滞在し、石垣はこのころに積まれたようです。江戸時代は牧野氏が城主をつとめ明治を迎えたという。

城主は麓に屋敷を構えて住み、その空間は公園になっています。山城部分は慶長期に石垣が加えられた以外は明治にまでそのままの姿を残したように見えます。
現地で見つけた案内地図 古くて読みにくい

山城と近世の城の共存、というより山城をすっぽりと包み込んだまま江戸時代をかけ抜けた城のようです。もう少し歩き回ると山城らしい遺構が見られるでしょうが、初夏ともなればどうしても緑が繁茂して地形が見にくくなります。冬にもう一度歩いてみたい。

山城も石垣も見ごたえ十分でしたが、麓の寺に移築されて現存する櫓が一番印象に残ったのはどうしてでしょうか。
城の麓にある真浄寺の「七面堂」


城の櫓だったと知らなければ・・・

敷石に載った建物というのはこんな感じだったのでしょうね

ほとんど城の中、といってもよいくらい城のすぐ麓にある日蓮宗真浄寺。日蓮宗の大事な女神、七面天女(シチメンテンニョ)を祀る「七面堂」として現存しています。明治になって城が壊された時、お寺が八幡台櫓を払い下げてもらい、移築したものです。

天守や櫓で現存するものはかなりありますが、いずれも「博物館」であることは否定できません。しかしここにあるのは『矢倉』の役割は捨てたとはいえ今は『仏堂』に生まれ変わり、現役で平成の世を生きているものです。お城がそのまま今に続いていて、ここだけは「城址」ではなくて「元お城」と呼びたいところです。

すっかりお寺に溶け込んだ姿がとても優しいのは・・・やはり女神だからでしょうか。


笠間城に関する詳細は; 笠間観光協会 http://www.kasama-kankou.jp/index.html


2015年3月15日日曜日

太田金山城 石に彫った城

群馬県太田市にある金山城の「大手道」を見に行きました。

大手道だけ見に行く、というのはあまりやったことがない、というより始めてです。実は金山城では平成21年度から大手道の発掘を続けていてその年の成果を毎回この時期にお披露目してくれるのです。

これまで大手道に沿って石造りの側溝が発見されて話題を呼びました。金山城に登ってブルーシートを目にするたびに気になっていました。あの下に何があるのだろう?

今年はどんな発見があったのでしょうか。3月8日日曜、こぬか雨。「午後は曇り」の予報を信じて出かけました。
中央やや右にオレンジ色で書き込んだ線が大手道
当日もらったパンフレット

金山城は金山(標高239メートル)頂上に曲輪が広がる山城です。築城は15世紀半ば、と見られています。関東のめまぐるしい戦国時代を通して城主は何回か替わりましたが、最後は小田原北条氏の城となり、秀吉の小田原攻撃とともに城としての役割を終えました。現在の遺構はもちろん北条氏の時代のものです。
大手門跡 ここから大手道が下ります。

金山城は何と言っても関東では珍しい総石垣の城として知られています。しかもただの石垣ではなくて見た目の美しさ、圧倒するくらいの豪華なレイアウトが城好きの間で突出した人気を誇っています。石垣の復元部分のきれいすぎる感じが個人的には気になります。かつてはもう少し荒削りな感じがあったのでは、と想像しています。大手道の門跡に出現した石垣にはそんな感じがにじんでいます。
当日もらったパンフレット 黄色が大手門跡 うすいブルーが今回の発掘
ピンクは門の跡です。

大手道は山頂曲輪群の大手門跡から山麓にあるガイダンス施設まで下っています。この大手道、下から上がって来ると城に入る前に大きなお椀の中に入るような形になります。前後左右からピタリと鉄砲なり矢で狙われる、怖い場所です。このお椀の中の部分がこれまで調査してきた大手道です。


門に入ってすぐ目に入る光景

側溝は水はけのため、と見られていますが、ちょうどこの日雨が降ったのでその効能がよく分かりました。写真は雨が上がってから撮ったので水の勢いは捉えられませんでしたが、あちこちに溜まった水である程度は想像できます。山全体が岩塊なのでもともと水はけは良くありません。雨が降ったら川のように水が流れます。

城自体が巨大な岩盤上に造られているだけでなく、石垣に使用した石材も足元の岩盤から削り取ったものです。そういえば城域のあちこちに岩肌が露出しています。石を削り取ったあとも見えています。大手道に沿った側溝も石造りというよりは岩盤を削って造ったものなのです。これまであまり意識しませんでしたが、こうやって眺めると金山城は巨大な石塊を彫ったり切り取ったりして造った「石の城」に見えてきました。
礎石上には何らかの建物があった、と見られる   左隅の石列は門の跡か

同じ場所を上方から見る 右側の石垣の上が地表面
石垣は当時のもの

こんな門と建物があったのでは、と考えています。

想像図の右下に注意   側溝をたどって人が入り込めないようにしたのでは?

今後も発掘は麓のガイダンス施設まで続け、大手道の正確な場所、形態を調べるそうです。その大手道を歩くことはかなわなくても、せめて沿って登ってみたい。金山城は車で簡単に城の中枢に行けるし、トイレ付きの立派な駐車場まで完備しています。どうしても車に頼ってしまいますが、山城はやっぱり歩いて登りたいですね。
岩肌を削った水路 左側は土塁

何らかの理由で水路の変更があったようだ

左に崖、右に石積み この間のスペースが歩道と見られている  右下に水路

発掘現場には夢があります。これまでの見方を大きく変えるような発見がいつもあるとは限りませんが、新しい歴史解釈のプロセスに参加している気になるのが嬉しい。

解釈が変わる、といえば金山城はかつては朝鮮式と見られたことがあったそうです。関東には珍しい総石垣の城だったせいでしょうか。しかし発掘が進んだ結果、現場にいた文化財課の担当者によると、そういう見方は今はしないそうです。
石垣の下を支えるアゴ止め石

右手に露出した岩盤

自然の岩盤と人口の石垣の共存

日本の石垣はきれいな勾配が特徴なのに、金山城の石垣はほぼ垂直に近い積み方なので、朝鮮式に見えたのでしょうか?金山城と八王子城の石垣にしか見られないという「アゴ止め石」も教えてもらいました。この二つに共通しているのは小田原北条氏の城であった、ということ。見た目は違っていても共通の築城技術なり、あったのでしょうか。それともただの偶然?

大手ルートを求めてさらに発掘は続きます



2015年2月17日火曜日

韮山城 パワーの源は砦群か

韮山城は気になる城でした。

もう5年ぐらい前、ふと立ち寄った時の印象がとても強かったのです。田園が広がる静かな町の、さらに外れにある土の城がなんとも可愛い。小田原北条氏の城にしては規模が小さいのにまず驚きました。秀吉の大軍を相手に奮戦したイメージにも合いません。

後で知りましたが、曲輪がコンパクトにまとまった本城の他に、小田原攻めの際に構築されたと見られる砦が多数あるという。どうやらこの砦がくさい。韮山城のパワーの秘密がありそうです。それ以来、砦跡が気になっていました。なんとしても見てみたい。

そんな折も折、伊豆の国市が去る1月24日、「韮山城を考える」と題したシンポジウムを開催してくれました。韮山城について話が聞ける!砦も見てこよう!一石二鳥ではないですか。出かけましたよ、当然。

韮山城というのは小田原北条氏の祖、伊勢宋瑞(いせ そうずい)が伊豆に築いた城で、後に続く北条五代はここから始まりました。1400年代の末ごろ、と見られています。伊勢宋瑞はこの城を起点に関東への進出を計ったのです。二代目氏綱(うじつな)が本拠地を相模の小田原に移した後も、伊豆の中心として、さらには西の今川、武田両雄をにらむ前線基地として重要な役割を担いました。

その韮山城が歴史にはなばなしく登場するのは何といっても1590年、豊臣秀吉の小田原攻めです。4万を超える秀吉軍の攻撃に対し、数千と見られる北条軍がこの城に籠って3か月堪えたのです。結果として開城せざるを得なかったものの、難攻不落の城として名を残しました。他の北条の城が次々と落城する中で、最後まで残ったのは忍城とこの韮山城だけでした。

この華々しい過去の実績とコンパクト本城の現在の姿、何とか結びつけたい。
東側から見た韮山城全景

広い池がまず目につきます。農業用のため池です。宋瑞殿がおられた頃にあったかどうかはわかりません。江戸時代の絵図(享保年間「囲内之絵図」)には描かれているので、江川代官の頃にはすでに存在したことは確かなようですが、それ以前は・・・。城を取り巻いていた水堀が江戸時代になって溜池に拡大、転用されたものかもしれません。


韮山城の模型   伊豆の国市韮山郷土資料館の展示

本城と呼ばれる山城部分は南北に400メートル、東西に100メートルと細長い尾根に5つの曲輪が並んでいます。いちばん高い主郭は高さ41.7メートル。広くもなく、高さもありません。当時は水堀で囲まれていたとはいえ、わずか数千と見られる兵力で10倍の敵によく堪えたなぁ、と素人目にも不思議です。
塩蔵跡と言われる場所 詳細不明

南側の端にある狭い曲輪

塩蔵跡から見る主郭

4万4千人と言われる秀吉軍は付城(つけじろ)や柵、堀までを用いて韮山城をぐるっと包囲していました。『干し殺し』をもくろむ秀吉の書状も残っているそうです。この時作られた堀の跡を偲ばす地形が第二次世界大戦の後まで残っていたそうです。1948年(昭和23年)にアメリカ軍が空撮した写真にその痕跡が見えています。戦後に田や農道を整地する以前の写真なので当時の堀跡がたどれる、と見られていますが、まだ確認されたわけではありません。

しかも周りを取り囲んだ秀吉軍の武将は織田信雄、蒲生氏郷、蜂須賀家政、福島正則、細川忠興等々戦国時代の超有名スーパー武将が顔をそろえていました。それだけの大軍による攻撃を数か月にわたってやや小ぶりな本城だけでどうやって押しとどめたのでしょうか。
主郭(右)と二の丸(左)の間から見える天ヶ岳

本城の背後、天ヶ岳(てんがだけ)のあちこちに設けられ砦群の力が大きかったのではないでしょうか。そもそも韮山城はこの背後の山塊を十分計算して作られたのではないか、天ヶ岳を含めた山塊が韮山城だったのでは、とこれは私の想像。

天ヶ岳は高さこそ128メートルですが、南北に1100メートル、東西に700メートルを広がっています。とりあえずは見てみましょう、その砦跡を。

128メートルぐらいの高さなら簡単に登れる、と読んだのが大間違い。傾斜は急でところどころに置いてあるロープに捕まらないことには登れません。しかも雨の後でもないのに土壌に水分が多いせいか、よく滑るのです。頂上から麓へ尾根が何本か下っていて、その尾根上の平場を砦に利用したのでしょうか。広い平地は見られません。尾根のあちこちにズパッと堀切ってある所だけ、いやに生々しい。
オレンジ色のこの日登った尾根ルート。    東の山側には秀吉側の付城が並びました。

尾根はいずれも細く険しい


時折平場に出くわす

大勢の兵が駐屯するのは地形的に厳しそうですが、これだけの山にこもったらけっこう攻めるのは難しいかもしれません。見晴らしは素晴らしく、敵の動きはすべてお見通し。敵がここまでやって来るのは至難の業。食糧さえ確保されれば長期間持ちこたえるのでは?
途中から本城を見下ろす。 主郭がよく見えます。

主郭から見上げた天ヶ岳

天ヶ岳の最高所  とても狭い

周辺に築かれた堀切   両側の崖はきわめて急峻



反対に向かう尾根道にも堀切が見える。

『干し殺し』作戦が効かなかったか、効果が出る前に戦が『終了』したのか。今となっては分かりません。その分、いろいろ想像させてくれるお城です。

シンポジウムではこれまでの発掘の成果、古文書をはじめ各種記録の研究等、多面的なアプローチから発表がありました。その中で、東海道と並んで小田原への重要なルートを韮山城が守っていた、という話に興味が惹かれました。

「小田原城を守るには箱根路の山中城、片浦口の韮山城、川村口の足柄城の3つが重要」と述べる松田康長の手紙はとても説得力がありました。私たちはどうしても現代の感覚から東海道に目を向けてしまいますが、当時は韮山城から東に向かい、熱海を通るルートが物資輸送では大きな役を担っていた、と見られるそうです。だから3ヶ月も韮山城をつぶそうと秀吉はガンバッたのか?

しかし小田原がすでに10何万の取り囲まれ、補給路は絶たれていると見られるのに、韮山からのルートに4万もの兵力を割く必要があったのでしょうか。しかも韮山城を守った北条家の武将は氏政の5男氏規(うじのり)。德川家康と懇意のため非戦闘的解決を目指す「外交派」の筆頭とみなされた人。同時に進めた外交戦を担う氏規への政治的圧力だったのか?

謎が多い所が韮山城の魅力でもあります。

韮山城包囲戦については古文書や古地図類が多く残っているそうです。戦に負けただけに、小田原北条氏については表に出ることなく消えていった史実が多いのではないでしょうか。そうした古文書をもとに新たな発見、解釈が出てきて欲しいですね。

発掘もこれまでは周辺の建物の立て替えや新築にともなう断片的なもので、発掘を目的にした本格的なものは行われていません。本城部分の発掘はゼロです。周辺の発掘では堀跡や道路と見られる敷石などが出ているので、ぜひ本格的な発掘をして欲しいものです。
昭和23年の写真で堀跡のラインか、と見られるのが黄色い線
反対側(東)の付城を合わせて周囲を包囲しています。


天ヶ岳の北方  天気が良ければ前方に富士山



天ヶ岳の砦に登ると、周りがよく見えます。当時も周りをすっぽりと包囲した敵の姿はしっかり見えたはずです。尾根に切り込まれた堀切を見ていると北条方の緊張感が今も漂ってくるようです。

シンポジウムではいろいろな話を聞きましたが、韮山城はやはりどこか謎めいています。もう少し足を運ばなければ頭の整理ができません。砦はたくさんある中で見たのはほんの一部にすぎないし、付城も見てみたいし・・・。

伊豆の国市では韮山城跡のこれまでの研究成果を「百年の計」というタイトルでインターネットで公開しています。写真も豊富です。伊豆の国市のHPから入れます。http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/20140925.html