2015年1月21日水曜日

津久井城 受け継がれた記憶

津久井城(神奈川県相模原市緑区)を探索する「マニア向けツアー」に参加しました。年に一度、参加20名限定の希少な機会です。

JR横浜線、京王相模原線の橋本駅から津久井湖に向かって車を走らせると、間もなくコブが三つ連なった山が前方に現れます。いかにも山城らしい風貌をした独立した山で、一番高いコブの標高は375メートル。

何がマニアックかというと、往時の登城路を伝って主郭に至るルートをたどる点だろう。慶安元年(1648年)作成の古図に記された道を目安にしている。廃城のおよそ60年後に画かれた地図なので、信ぴょう性は高そうです。傾斜はかなり険しく公園の散策ルートには入っていない。津久井城が公園としてきれいに整備されているだけに「へえ、こんなところにも曲輪があるのだ。」と新しい発見が楽しい。
慶安元年作成の地図で登城路の説明を受ける。

津久井城は1590年, 豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した北条氏系の城です。落城後は城跡への出入りが制限されたため戦国時代の遺構がよく残っている。この点は近くの八王子城とよく似ている。二つとも江戸時代は徳川家の管理下にあったので、明治になって大半がそっくり国有地になった点も似ている。遺構の保存にはたいへんプラスになる。

本城曲輪から東に見える八王子城

カメラはズームインしていますが、肉眼で見えるのもこんな感じです。

八王子城の落城は旧暦6月23日、津久井城は二日後の25日に開城。八王子城が激しい戦闘の末、千人を優に越える死亡者を出したのに対し津久井城では大きな戦闘はなかったと見られている(詳細は不明)。八王子城が落城したことよる精神的打撃はさぞ大きかったことでしょう。津久井城からは八王子城がよく見えます。八王子城炎上の炎は見えないまでも立ち昇る黒煙を目にして戦意喪失してしまったことでしょう。

散策路を離れて山道へ

道はあってないような・・・。
踏みしめた跡があったり



なかったり

慶安古図の登城路を登ってたどり着いたのがタイラク主水(もんど)と記された曲輪。タイラクとは何のことかわからないそうだが、家臣のうちに「太楽」という名字のものがいるそうで、その「太楽主水」の屋敷があった曲輪ではないか、と見られています。その太楽主水も一体どんな人物だったのか、実はよくわからないそうです。
「タイラク主水」曲輪 左手は一段低くなっています。後に見えるのは津久井湖。

スタッフがポールを立てたあたりに古図では虎口が描かれていると説明。

大きく叫んだつもりでしたが・・・。

ただ声の大きな人でここから大声をあげたら下にまで聞こえた、という話が伝わっています。そこでみんなで声を張り上げてみて、果たして麓で聞こえるか、という実験をして見ました。エイ、エイ、オー!と3回声を張り上げたのが上の写真。残念なことに声は麓では聞こえなかったそうです。太楽主水の大声には及びませんでした。

ところが昨年のツアーでは聞こえたそうです。聞こえたり、聞こえなかったり、今年の20人のパワー不足なのか、風向きのせいなのか?太楽主水と一騎打ちを何年か続けるうちに根小屋の旧家の土蔵から古文書でも見つかって、タイラク主水が何者なのかわかるといいですね。

大体この城は人物については不明な点が多いようです。落城後の城主の所在も長い間不明でした。城主と伝えられた人自体が実は別人だった、と今は考えられています。謎めいた城ですね。

私は何回か津久井城を歩いていますが、よくわからないことが多いのです。ただ津久井城に対する地元の人の熱意と言うか、愛情というか、優しい心を感じます。その気持ちに癒されるみたいで、機会があれば来ています。先祖が恩を受けた城主への気持ちを石碑にして後世に伝えようとした島崎律直(ただなお)さんの心はいまでも生きているようです。http://yorimichi2012.blogspot.jp/2013/06/blog-post_28.html

太楽主水曲輪からすぐ上に「米蔵」と呼ばれるやや小ぶりの曲輪があり、さらに登ると主郭をぐるりと取り巻く「米曲輪」に出ます。ちなみにここでは主郭を本城曲輪と呼んでいます。
「米蔵」から「米曲輪」に出たところ  両側に土塁
黄色い輪で囲んだ石に注意

反対側には見当たりませんが、門の礎石かもしれません。
古図には虎口が記されています。

ブルーのライン左下に「タイラク主水」曲輪  矢印は歩いた方向

ここで案内してくれた津久井湖城山公園のスタッフから興味深い話を聞きました。戦国時代の土の層というのは普通何十センチも掘らないと出てこないのですが、ここでは15センチぐらい掘ると戦国期の石敷きがでるそうです。場所によっては露出しているものあります。

はっきりした理由は分かりませんが、風が強いために堆積した土が吹き飛ばされるからではないか、と見られているようです。そういえばここは独立した山で四方八方から激しい風にさらされて土が落ち着いて堆積するヒマはないかもしれません。
露出した戦国期の石敷き

上と同じ石敷き 米曲輪、右前方に本城曲輪

「米曲輪」の下、「土蔵跡」にも石敷きと見られる石が露出。
土蔵の跡でしょうか。

いろいろな城跡で発掘調査用のトレンチを見てきましたが、いずれも50センチ、1メートルと深い。まるで庭石のように並んだ石が400年以上昔からあるものだと聞かされても、にわかに信じられませんよねぇ。
「鷹撃場」から眺められる関東平野 すぐ下に流れるのは相模川

ちょっとズームインすると・・・。橋本駅周辺のビルの向うに都心のビルが見えます。

ぐるっと後側、西を見ると丹沢の山々 矢印は蛭が岳
右、北に向かえば甲州、左、南には三増峠

「鷹撃場(たかうちば」と呼ばれる曲輪は三つのうち一番ひくいコブにあります。名前の由来は不明ですが、ここから関東平野を眺めるとまるで鷹になったような気になります。遠く新宿のビル群まで見えます。そういえば八王子城からも晴れていれば遠く筑波山まで見えることを思い出しました。小田原北条氏は支配する領国のほぼ全体を肉眼で見ていたのですねぇ。

元気をもらった嬉しい話をひとつ。


津久井城には樹齢900年と言われ、遠くからでもはっきり見える巨大な杉の木がありました。しかし平成25年8月に落雷のため燃え落ちてしまいました。津久井城落城を目撃したかもしれない杉の木が燃えてしまってガッカリしました。ところが新しい芽が出てきました、燃え落ちた木の根元から。この新芽によって戦国時代の記憶が未来に受け継がれるかもしれませんね、あと900年ぐらいは。

二代目ガンバレ!



ツアーの主催は県立津久井湖城山公園  http://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/

杉の木の雄姿はこちらでどうぞ。http://yorimichi2012.blogspot.jp/2013/06/blog-post_25.html