2015年2月17日火曜日

韮山城 パワーの源は砦群か

韮山城は気になる城でした。

もう5年ぐらい前、ふと立ち寄った時の印象がとても強かったのです。田園が広がる静かな町の、さらに外れにある土の城がなんとも可愛い。小田原北条氏の城にしては規模が小さいのにまず驚きました。秀吉の大軍を相手に奮戦したイメージにも合いません。

後で知りましたが、曲輪がコンパクトにまとまった本城の他に、小田原攻めの際に構築されたと見られる砦が多数あるという。どうやらこの砦がくさい。韮山城のパワーの秘密がありそうです。それ以来、砦跡が気になっていました。なんとしても見てみたい。

そんな折も折、伊豆の国市が去る1月24日、「韮山城を考える」と題したシンポジウムを開催してくれました。韮山城について話が聞ける!砦も見てこよう!一石二鳥ではないですか。出かけましたよ、当然。

韮山城というのは小田原北条氏の祖、伊勢宋瑞(いせ そうずい)が伊豆に築いた城で、後に続く北条五代はここから始まりました。1400年代の末ごろ、と見られています。伊勢宋瑞はこの城を起点に関東への進出を計ったのです。二代目氏綱(うじつな)が本拠地を相模の小田原に移した後も、伊豆の中心として、さらには西の今川、武田両雄をにらむ前線基地として重要な役割を担いました。

その韮山城が歴史にはなばなしく登場するのは何といっても1590年、豊臣秀吉の小田原攻めです。4万を超える秀吉軍の攻撃に対し、数千と見られる北条軍がこの城に籠って3か月堪えたのです。結果として開城せざるを得なかったものの、難攻不落の城として名を残しました。他の北条の城が次々と落城する中で、最後まで残ったのは忍城とこの韮山城だけでした。

この華々しい過去の実績とコンパクト本城の現在の姿、何とか結びつけたい。
東側から見た韮山城全景

広い池がまず目につきます。農業用のため池です。宋瑞殿がおられた頃にあったかどうかはわかりません。江戸時代の絵図(享保年間「囲内之絵図」)には描かれているので、江川代官の頃にはすでに存在したことは確かなようですが、それ以前は・・・。城を取り巻いていた水堀が江戸時代になって溜池に拡大、転用されたものかもしれません。


韮山城の模型   伊豆の国市韮山郷土資料館の展示

本城と呼ばれる山城部分は南北に400メートル、東西に100メートルと細長い尾根に5つの曲輪が並んでいます。いちばん高い主郭は高さ41.7メートル。広くもなく、高さもありません。当時は水堀で囲まれていたとはいえ、わずか数千と見られる兵力で10倍の敵によく堪えたなぁ、と素人目にも不思議です。
塩蔵跡と言われる場所 詳細不明

南側の端にある狭い曲輪

塩蔵跡から見る主郭

4万4千人と言われる秀吉軍は付城(つけじろ)や柵、堀までを用いて韮山城をぐるっと包囲していました。『干し殺し』をもくろむ秀吉の書状も残っているそうです。この時作られた堀の跡を偲ばす地形が第二次世界大戦の後まで残っていたそうです。1948年(昭和23年)にアメリカ軍が空撮した写真にその痕跡が見えています。戦後に田や農道を整地する以前の写真なので当時の堀跡がたどれる、と見られていますが、まだ確認されたわけではありません。

しかも周りを取り囲んだ秀吉軍の武将は織田信雄、蒲生氏郷、蜂須賀家政、福島正則、細川忠興等々戦国時代の超有名スーパー武将が顔をそろえていました。それだけの大軍による攻撃を数か月にわたってやや小ぶりな本城だけでどうやって押しとどめたのでしょうか。
主郭(右)と二の丸(左)の間から見える天ヶ岳

本城の背後、天ヶ岳(てんがだけ)のあちこちに設けられ砦群の力が大きかったのではないでしょうか。そもそも韮山城はこの背後の山塊を十分計算して作られたのではないか、天ヶ岳を含めた山塊が韮山城だったのでは、とこれは私の想像。

天ヶ岳は高さこそ128メートルですが、南北に1100メートル、東西に700メートルを広がっています。とりあえずは見てみましょう、その砦跡を。

128メートルぐらいの高さなら簡単に登れる、と読んだのが大間違い。傾斜は急でところどころに置いてあるロープに捕まらないことには登れません。しかも雨の後でもないのに土壌に水分が多いせいか、よく滑るのです。頂上から麓へ尾根が何本か下っていて、その尾根上の平場を砦に利用したのでしょうか。広い平地は見られません。尾根のあちこちにズパッと堀切ってある所だけ、いやに生々しい。
オレンジ色のこの日登った尾根ルート。    東の山側には秀吉側の付城が並びました。

尾根はいずれも細く険しい


時折平場に出くわす

大勢の兵が駐屯するのは地形的に厳しそうですが、これだけの山にこもったらけっこう攻めるのは難しいかもしれません。見晴らしは素晴らしく、敵の動きはすべてお見通し。敵がここまでやって来るのは至難の業。食糧さえ確保されれば長期間持ちこたえるのでは?
途中から本城を見下ろす。 主郭がよく見えます。

主郭から見上げた天ヶ岳

天ヶ岳の最高所  とても狭い

周辺に築かれた堀切   両側の崖はきわめて急峻



反対に向かう尾根道にも堀切が見える。

『干し殺し』作戦が効かなかったか、効果が出る前に戦が『終了』したのか。今となっては分かりません。その分、いろいろ想像させてくれるお城です。

シンポジウムではこれまでの発掘の成果、古文書をはじめ各種記録の研究等、多面的なアプローチから発表がありました。その中で、東海道と並んで小田原への重要なルートを韮山城が守っていた、という話に興味が惹かれました。

「小田原城を守るには箱根路の山中城、片浦口の韮山城、川村口の足柄城の3つが重要」と述べる松田康長の手紙はとても説得力がありました。私たちはどうしても現代の感覚から東海道に目を向けてしまいますが、当時は韮山城から東に向かい、熱海を通るルートが物資輸送では大きな役を担っていた、と見られるそうです。だから3ヶ月も韮山城をつぶそうと秀吉はガンバッたのか?

しかし小田原がすでに10何万の取り囲まれ、補給路は絶たれていると見られるのに、韮山からのルートに4万もの兵力を割く必要があったのでしょうか。しかも韮山城を守った北条家の武将は氏政の5男氏規(うじのり)。德川家康と懇意のため非戦闘的解決を目指す「外交派」の筆頭とみなされた人。同時に進めた外交戦を担う氏規への政治的圧力だったのか?

謎が多い所が韮山城の魅力でもあります。

韮山城包囲戦については古文書や古地図類が多く残っているそうです。戦に負けただけに、小田原北条氏については表に出ることなく消えていった史実が多いのではないでしょうか。そうした古文書をもとに新たな発見、解釈が出てきて欲しいですね。

発掘もこれまでは周辺の建物の立て替えや新築にともなう断片的なもので、発掘を目的にした本格的なものは行われていません。本城部分の発掘はゼロです。周辺の発掘では堀跡や道路と見られる敷石などが出ているので、ぜひ本格的な発掘をして欲しいものです。
昭和23年の写真で堀跡のラインか、と見られるのが黄色い線
反対側(東)の付城を合わせて周囲を包囲しています。


天ヶ岳の北方  天気が良ければ前方に富士山



天ヶ岳の砦に登ると、周りがよく見えます。当時も周りをすっぽりと包囲した敵の姿はしっかり見えたはずです。尾根に切り込まれた堀切を見ていると北条方の緊張感が今も漂ってくるようです。

シンポジウムではいろいろな話を聞きましたが、韮山城はやはりどこか謎めいています。もう少し足を運ばなければ頭の整理ができません。砦はたくさんある中で見たのはほんの一部にすぎないし、付城も見てみたいし・・・。

伊豆の国市では韮山城跡のこれまでの研究成果を「百年の計」というタイトルでインターネットで公開しています。写真も豊富です。伊豆の国市のHPから入れます。http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/20140925.html