2016年7月8日金曜日

韓半島の城跡(7) 機張邑城の痕跡

平成28年3月16日(水)

西生浦倭城から釜山に帰る途中、機張(キジャン)に立ち寄り再建された邑城(ゆうじょう)跡を見ることにした。邑城というのは韓半島にある石垣で囲った街のことで、平時は住民が住まい、外敵からの危険が生じた場合は城として身を守る場所をいいます。城とは言っても兵隊だけではなく、住民の生活の場でもあるわけで、日本の城とは趣を異にする。目的も違うので形も違ってくる。

韓国では邑城と同時に鎮城があり、これは港湾の防御のための城。韓半島の場合は倭寇と呼ばれた海賊が頻繁に海岸に沿った集落を襲い、甚大な被害を及ぼしため、海岸線を守るために朝鮮時代に数多く築城された。鎮城が海岸線で賊を食い止め、住民は邑城にこもって侵入した賊から身を守った、ということなのか。


倭寇については中学、高校の日本史で詳細に教えてもらった記憶がありません。ところが韓国では「倭寇=日本」という意味で使われていて、ギャップを感じてしまいます。韓国の案内板には「倭寇による被害」とか「倭寇対策」といった言葉が頻繁に出てくるのに対して、私を含めて通常の日本人には、それが一体誰なのか、どこに住んでいた人たちだったのか、日本人だけのグループなのか、実態はよくわかりません。どうやら対馬を基地にして季節的に韓半島の村々を襲撃し、不足する食糧に充てていた、という話を聞いたことがありますが、今学校では何と教えているのでしょうか。

ところが中国大陸を荒らしまわった倭寇もいて、これはもっと多国籍軍であったらしい。
この辺りにだけわずかに残る城の石積み。

積み直されたのでしょうか。


両側の石に門柱が建っていたそうです。唯一残る東門。
邑城は遺跡として整備されたが、案内板は数年前と同じものが残っていた。

キジャン邑城もそんな倭寇から身を守るために使われた、と見られています。しかしここに始めて城を築いたのはもっとはやく、高麗時代だろうと見られます。日本では鎌倉時代と重なる時代です。あの大規模な2度にわたる元寇が博多を襲ったのも高麗王朝の頃です。日本史に登場することもなく、きわめてローカルな接触であっても、人と人との接触、異文化交流の一形態があったのでしょう。

韓国も最近は歴史遺産の発掘や復興に力を注いでいます。生活に余裕が出たおかげと言おうか、過ぎた昔を振り返るだけ、心にゆとりが出て来たのでしょう。日本各地で城郭再建の動きが多いことと、重ねて考えてしまいます。

歴史が日本と重複する部分の多い韓半島なら、調査結果を共有できる部分も多いわけで、これからが楽しみです。
現役で使用中の石積み

上部は通路に使用。  幅は1・5メートルぐらいか。

キジャンは近くの海辺の村、竹城(チュクソン)に倭城祉があって何度か足を運んでいます。キジャン倭城と呼ばれていて、ここも加藤清正と縁の深い城です。今回は時間がなくて通り過ぎましたが、ここにも朝鮮式の鎮城がありその一部を倭城が利用した、と見られています。

今回キジャン邑城を訊ねたのは2度目です。5年前にキジャン倭城をさがしてプサン駅前からバスで来たことがあります。その時倭城は見つけられなかったけれど大通りを歩いていて邑城の案内板に出くわし、写真を撮った記憶があります。記憶がつながるかどうか、同じ石垣にお目にかかりたい、とひそかに期待していました。

キジャンには有名な生鮮市場があり、日本海でとれるカニが名物です。鉄道の駅と反対側に街道が走っていてその街道の山寄り(海と反対側)に苔むした石垣があったように記憶しています。
城内から見た石積み。ここは完全に復元されたものと思われる。

感をたよりに方向を定めて歩き出すや、立派な石垣がデーンと屹立しているのがすぐ分かりました。事前に韓国のブログで見なれたきれいな石垣とその前にしつらえた何かの顕彰碑がキジャンの街を貫くメーンストリートに建っています。数年前にはなかった、立派な復興石垣です。
城の遺構とは関係ありません。


日本の古い家屋と似ていて落ち着きます。

直ぐ近くにマッサラの朝鮮式家屋が見え、周辺を空き地で囲ったうえ、真ん前に立派な古木も立っています。邑城より時代は下りますが、『歴史的建物』であって朝鮮時代の官吏の邸宅を、民家として使われていたものを修理してつい最近公開を始めたいう。この朝鮮時代の官吏の邸宅にいたキジャン郡庁の人がキジャン邑城の遺跡を見たい、という私を案内してくれました。偶然にも遺跡に詳しい人から直接話を聞けたわけです。なかなか得難い幸運に感謝。

キジャン邑城を取り囲む石垣がすべて今まで残っていたわけではなく、ほんのわずかにすぎません。しかしこれがきっかけになって邑城の多くに研究のメスが入るならこんなうれしいことはありません。きれいに修復された石垣より、あちこち崩れていて、汚れが目立つ泥だらけの石垣の方が本物の匂いがします。こちらの人は修復する時に同時に修正も行うのではないか、と怪しまれるくらいきれいに仕上げます。良い悪い、ではなく習性でしょうねぇ。

朝鮮時代の官吏の館に靴を脱いで上がって、しばらく休ませてもらいました。朝鮮戦争で大きな被害に遭った韓国には、古い時代の建物で現代まで残っているものは少なく、復興されたものが多い印象を持っていました。この官吏の館のような例が増えるといいですね。


2016年7月1日金曜日

韓半島の城跡(6) 西生浦倭城

平成28年3月16日(水)

プサン市内には、亀浦(クッポ)倭城が城郭としての全体像を比較的残している以外、多くの倭城は原型をいちじるしく失ってしまい、石垣が部分的に残っているだけです。都市化の波に洗われてすっかり消えてしまった城も多い。

その中で西生浦(ソセンポ)倭城は別格と言っていい。プサンに近い、と言うより蔚山(ウルサン)市の郊外にあり、今でも使えそうな形で残っています。プサンから40キロほど北にあって韓国を代表する現代自動車の本拠地として知られている工業都市だ。築城は加藤清正。

文禄の役で築城され、慶長の役まで続けて使用された。長くこの城を守ったのも加藤清正で、慶長の役の終わりごろの1597年、建設途上のウルサン城が明と朝鮮の軍に総攻撃にさらされた折、救援に駆けつけてかろうじて難を救った『ウルサン城の戦い』に出かけたのはこの城からでした。

もうすっかり有名な登り石垣  今日は上方から下方を撮ってみました。

大手虎口をしばらくj登って、今整備が進んでいる部分

加藤清正は文禄の役で北朝鮮の日本海沿岸地域を転々とし、旧満州にまで足を延ばした後はソセンポ倭城をベースに動いたようです。慶長の役に入って浅野長慶も加わり、慶長3年の後半には黒田長政親子もクッポ倭城から移った、という記録がある。

慶長の役が終わり、秀吉軍が撤退した後、朝鮮軍が施設として利用したことも原形をとどめるのに役だったかもしれません。その期間に朝鮮軍の手で変更が加えられた可能性は否定できませんが、畑や墓地に利用されたり民家が建てられた他の倭城に比べ、驚くほど「日本の城」が活きています。高石垣を見るたびに加藤清正を感じてしまいます。

プサン市内のKorail(韓国のJR)釜田(プジョン)駅からジーゼル機関車が引っ張るムグンファ号に乗って南倉(ナムチャン)までおよそ1時間。ナムチャンから鎮下(チナ)海水浴場までバスで15分くらい。バスは1時間に2本程度らしく、私はいつも20分ぐらいは待たされます。バスjの番号は715。蔚山(ウルサン)方面から来るバスで『鎮下(チナ)海水浴場』に行くことを確認してから乗るように。降りるのは『チナ海水浴場』という停留所。そのひとつ前が『ソセンポ倭城前』。ここで降りてもいいのですが、海水浴場で降りると、城がすぐ後に見えて、これもお勧め。
バスを降りて振り向けば目に入るソセンポ倭城  矢印の先に登り石垣が見えています。

石垣の修復ではないようで、さて・・・。

数年前から蔚山市が石垣の修復を続けています。この日もブルドーザーが入って大規模な土木工事が続けれていた。城の修復は嬉しいことですが、城の背後に目をやると、すぐ近くまで高速道路が伸びて来るらしく、道路を載せる巨大な土台がすぐそこまで来ている。韓国経済をけん引するプサンーウルサンの工業地帯がとうとうここまで伸びて来たか、と韓国の人には悪いけど暗い気持ちになった。
数年前に修復が終わった大手虎口


傾斜のアングルがきれいですね。

2郭から主郭への虎口

10メートルはあるのでは・・・。上の方がたいぶ崩れています。

私がカメラを向けると「まだ早い。4月に来なさい。」と、工事を監督する中年男性。桜を見物に来たと思われたようだ。ここは桜の名所で、3月末から4月始めは大変な人出だとか。確かに桜の木は多いけど、まだまだ硬いつぼみだ。

石垣を多用した倭城は多いけどソセンポの石垣は高い。特に外を向いた面の石垣は目測で7,8メートルはあるだろう。緩やかかな曲線がきれいだ。「扇の勾配」にたどり着く以前の未完成の曲線美か。

曲輪と曲輪が連続して設けられていて、それが枡形虎口で連続している様はどこから撮っても額縁に入れたくなる。天守台も残っているが、かなり石が崩れてきている。不思議なことに大手口と見られる虎口を通って中へ入っても出口がない。虎口と思われる個所で石でふさがれたところがあるのは、途中で修復したものか、朝鮮軍が使った時代に手が加わったものか。
巨大な空堀は同時に造られたものか、放棄されたものか・・・。

クッポ倭城と同じく、ソセンポ城も石垣に空堀や堀切が同居している。城の側面に空堀が走っているのが見えるのに、石垣が高すぎて、降りられず、空堀にたどり着けないのがなんとも残念。

あちこちで工事用のテープが張られているのを見ると、これからも石垣修復工事が続くということか。上部がかなり崩れてきている石垣が多いのは事実ですが、時代を感じさせて悪くない。あまりきれいに修復されるとどこか嘘っぽさが混じる。
城跡のすぐ後ろに伸びてきているのは高速道路では?

主郭から見るとすぐそこまで工事が進んでいます。

このバスにはお世話になりました。

プサンの海水浴場で有名な海雲台(ヘウンデ)から直通のバス便があるようですが、私は個人的にバスより電車が好きなのでいつもムグンファ号を利用します。バスは一度乗りましたが、海際の集落を縫って走るので、随分と時間がかかったように記憶している。ムグンファ号(プジョンーナムチャン)3100ウォン(およそ310円) バスは交通カードを使用したので記録がありません。1100ウォン(110円)ぐらいと思う。